
近頃、Integrityという言葉について考えています。私たちの多くは、一種の正直という意味ととっています。例えば、あなたが道でだれかの財布を見つけた場合、もしあなたがIntegrityを持っていれば、お金を抜き取ることなく持ち主を探すでしょう。
また、Integrityは間接的に満足感と関係があるようにみえます。もしあなたがIntegrityを持っていなければ、他人をおとしいれてでさえも、より大きな富や権力、名声を求める自分自身の欲求に溺れてしまうでしょう。
Integrityについてさらに考えてみると、それは自意識とも結びついています。Integrityを持つことによってより高い徳に通ずる路に導かれます。しかしそうするためには、自分自身の境界線がどこに横たわっているかを掴んでいる感覚が必要です。もし私に個人の境界線の感覚がなければ、私は恋人とIntegrityを持った好い関係ではいられません。
自分と自分の子供との間に境界がないと感じている母親は、子供のメールを読むことがIntegrityの欠如だとは考えないでしょう。
プレイバックシアターは、Integrityを要求します。また、プレイバックシアターはIntegrityを教えるものだと私は信じています。どうしてでしょうか?プレイバックでは、明らかに正直さを要求し、自己満足を奨励しないようです。プレイバックでは、絶え間なく自分と他者についてきちんと区別をしていなければなりません。例えば、アクターとしてテラーの話を聞くと、どのようにストーリーを演じるかについての弾みを得ます。その弾みは本当にテラー(の話)に応えているものでしょうか?それともただ単に自分自身の何かに基づいているものでしょうか?
ステージでは、他のアクターと交流して行きますが、ストーリーを全うするために誠実に他のアクターと協働しているでしょうか?それとも、観客から愛されたいという欲求のためにステージの真ん中に知らないうちに立っているのでしょうか?
コンダクターとしては、ストーリーを生むための、テラーとの真の相互交流に入り込んでいますか?それとも、自分の権力を楽しんだり(人から)重要に見えたりするためのプロセスを操ってはいませんか?
そしてテラーもまた、このIntegrityに直面するのです。プレイバックシアターの実践者として、私達は、テラーが立ち現れて来るストーリーに敬意を持っているか、ストーリーの展開を前にして謙虚であるかどうか、あるいは、テラーが自身の満足のために注意を集めたり、操作したりといったことをしているかどうか等を、即座に感じることが出来ます。
プレイバックシアターのプロセスは、少なくとも個々がIntegrityに対してオープンである時、カンパニーライフにIntegrityをもたらすことを私は経験しました。例えば、しっかりとしたカンパニーでは、メンバーが自身の個人的な望みと他のメンバーの望みをIntegrityによって叶え合うことを学んでいるため、高い水準の相互関係の決定に至る・・といったことです。
そしてメンバー達はさらに高い徳に向かって共に歩んでいくことが出来るのです。
プレイバックシアターが発展し、より多様になり続けるにつれ、たくさんの人々が、Integrityついての発達した感覚を持たずに、プレイバックシアターにやって来ます。これは批判ではありません。多くの要因が現状の教育の中にあったり、Integrityの教育なしだったりして来たので、このような状況を引き起こしています。最も大きな要因は、おそらく現代社会の実利主義で競争的な価値体系にあります。実際に、今日の私たちのほとんどがIntegrityな生活を営むよう育てられていません。この点において、プレイバックシアターとそれが教えているものは、現代の生活に逆らうものです。心が広くあるために、自分達よりもテラーのことを考えるために、快く仲間のパフォーマーとストーリーの焦点を分かち合うために、そして、ストーリーの神秘の前に謙虚であるために。
演劇として、プレイバックは「Integrityを運ぶもの」という重要な特徴があり、それがプレイバックの持つ永久の魅力の理由のひとつでもあります。
さて、こういったIntegrityの紹介と共に、プレイバックシアターのコミュニティで私たちの前に立ちはだかる2つの明らかな道徳上の問題について話をしたいと思います。一つ目は、仲間との関係性についてです。私たちは、しばしば他のプレイバックシアターのグループや他のプラクティショナーに感情的な反応を持ちます。妬んだり、軽蔑したり、競ったりするかもしれません。このような感情は避けられないかもしれません。しかしながら、それらの感情に従って行動することは、Integrityの喚起を拒否し、反道徳的な振る舞いを引き起こしてしまうかもしれません。前向きな言い方をすると、プレイバックシアターの仲間と一緒に道徳的に振る舞うとは、公的な場で彼らに尊敬の意を示すことです。例えば、彼らに何らかの効果をもたらす活動を知らせることであったり、問題が両方のカンパニーに関係がある場合には相談することだったり、相手の持つ知性を尊重することでもあります。
近くで活動するカンパニーにIntegrityを持ってかかわり合うことは、そのカンパニーがあなたたちにIntegrityを持って振る舞っていない時、特に骨が折れます。このような困難な状況においても、自分たちの信用や特性をできる限り守るため道徳的な振る舞いをとり続けたいものです。プレイバックシアターが多様さをさらに増すにつれ、それぞれの新しいプラクティショナーがIntegrityの強い感覚を十分に備えているとは思えません。なので、私はIPTNのウェブサイトに目立つように道徳的な行為についての声明を載せるという考えを支持します。それによって、明確なガイドラインを必要としている人へ与えられます。
しかしながら、最も大切なこととして、どのように振る舞うかという声明ではなく、関係性を構築することを強調したいものです。地域でプレイバックシアターグループが年中行事を行っている場所では、ゆっくりと時間をかけて関係性が育まれているため、道徳的な関係の基礎を発達させています。一緒に時を過ごすとき、私たちはお互いのストーリーを聴きます。お互いのことをよく知るにつれ、私たちは、どんな問題に対してもお互いの助けになる解決策を見つけ出したいと思うようになります。平等な関係における目標は、ステージにおける目標に似て来ます。それは、より大きなストーリーを形にするためにアンサンブルとして協働することです。ですから、私は地域での集まりを強く勧めます。2つ目の懸念は、実際に行っていること以上にプレイバックシアーのことを知っていると考えている新規参加者に関係しています。こんな例があります。ある学校の先生が2日間のプレイバックシアターのイントロダクションを受けました。そして、そのプレイバックシアターのインストラクターは、その先生が生徒にプレイバックシアターを教えていると聞きました。そのインストラクターには、その先生がプレイバックシアターを安全に、かつ責任を持って教えるには不十分だと分かっていたので、落ち着かない気持ちになり、不道徳な実践が行われてしまっていると感じました。彼女は、その学校の先生が確実なプレイバックシアターのアイデンティティーを築きあげるためにどれほどの時間がかかるかちっとも分かっていないかっていない・・・と、腹を立てました。
望ましい行動方針としては、その先生がもっとトレーニングを積むという気持ちになるように、辛抱強く関係を築いて行くことです。と同時に、入門ワークショップの終わりに情報のひとつとして、道徳的な実践についての文書を配布したら良いと私は思います。この文書は、プラクティショナーが、プレイバックシアターを実践する全ての側面について強固な基盤を取得する前に早く進みすぎないようにと警告するものです。(スクールのホームページには、経験者向けの同様の文書がります「先生への手紙」を見てください)
結論として、私は2つの実践的なステップを提案します。それは、IPTNのホームページに載せた「平等な道徳規範の文書」と資料のページに添えた「入門ワークショップの終わりに配ることも可能な新しく学ぶ者への文書」です。
その核になるものは、プレイバックシアターは道徳的な振る舞いを体現するものである・・ということです。プレイバックシアターは至るところでIntegrityを求めます。また、プレイバックシアターは私たちにIntegrityとより素晴らしい徳へ至る道を教えてくれます。
Translated by Naohiro Takahashi, Hiroko Yanagawa